一致団結

2021・2・14の地震の被害が少しづつ見えてきました。

未だ復旧できていない方々には、こころからのお見舞いを申し上げます。

 10年前、実は私は東日本大震災の時をリアルに目で見た1人です。

まさに震災が起こり、その次の日の状況が忘れられません。

宮城県仙台市宮城野区に実家があり、

両親は偶然にも前日に四国へ旅行で仙台空港から飛び立ちました。

両親とは別に生活しており、心配で実家の状況を見にいくと

その途中では道路の陥没、街頭がついていない、車通りゼロ、歩く人もいない。

実家からほど近い、津波がきたと思われる仙台新港やその近辺の産業道路の辺りまで

道路は泥だらけ。本当に怖かった。

実家にやっと辿り着いたけれども、ガス漏れ、水漏れが心配で

鍵を開けて中に入ろうと思ったけれど、足の踏み場がなく、

玄関先に、持ってきた物資を置いてガスを見に行った。

プロパンガスだった実家は、ガスボンベが外れて塀に倒れかかっていたので

安全装置が作動して漏れてはいなくて、本当に安心した。

水漏れ箇所もなく、あとは両親が帰って来てくれれば…という願いのみ。

勿論、両親の携帯電話はつながる事がなく、ずっと話し中の様な『ツーツー』という音のみ。

いつ帰ってきても食べるものや飲み物に困らない様にして

実家を後にした。そのあとは仙台空港に車を置いて行ったであろう場所に向かったのですが

こちらも、どこも真っ暗闇。そして道路が泥だらけ。

近くにバス会社さんの事務所があったのですが、あかりが少しだけついていて、

そして来るはずだ、と思い、他の乗務員さんを待っているかのように

全てのバスのエンジンがかかった状態で、中にいた乗務員さんが一人で一生懸命に

誰かに電話している様子だったのですが、繋がるわけもなくという状況でした。

空港敷地内のフェンス越しには、たくさんの車が押し寄せられており

とにかく誰も見当たらない状況でした。

扇町の工業地帯も回ってみましたが、潰れてしまったビルの窓に

『ここの社員は全員無事です』という張り紙がたくさんありました。

潰れたビルの一番下は、駐車場になっていたようで、車がぺちゃんこ。

他のビルでも、著しく崩れている建物の前で

ドラム缶で火を焚いている方が2名ほどいらっしゃいました。

肩から毛布みたいなものを被り、日本の光景ではないような状況。

そしてMMTではなぜか電気がついており、まさに今から取材に行くところのようでした。

入り口にはお弁当がならべられており、『どのお店もやっていないのに、どこで買ったのだろう?』

と疑問に思ったのを覚えています。

そして、日本のナンバーではない外交官ナンバーのBMWが凄まじい勢いで走り去って行ったのですが

後部座席に乗っていた外国人男性は、衛生電話のような大きな電話を耳に当て

電話している状況が、まさに緊迫した状況だと感じ、身震いしたのを覚えています。

5日後、やっと四国にいる両親の電話が繋がりました。

状況を報告し、みんな無事だから帰れる状況になったら帰ってきてと伝えました。

そのあとすぐ、近畿日本ツーリストの方々が懸命な説得の上、

四国から2名体制の運転手をつけたバスで、なんとか帰ってきたわけですが

添乗員さんからの配慮で寄れるサービスエリアの全てに立ち寄り、

添乗員さんから告げれれた事があったをそうです。

「サービスエリアに立ち寄って、もしも売っているようであれば、水、おにぎりなどの

すぐ食べられるものを購入してきた方がいい」と。

この言葉が何を意味するか、誰も知るよしが無かったそうですが、

仙台駅に到着してまわりの状況を見た乗客みな、その時はじめて

添乗員さんの言葉に気づいたと、両親から聞きました。

しばらくの間、断水しましたが、両親は水の確保は、四国からの帰り足で調達しており、

私が用意しておいた物資の缶詰、カップラーメン、灯油、飲み物、生鮮食品で

困る事なく、そしてご近所さんにもお裾分けし、

また、水が使える様になったけれども、

都市ガスだったお宅はお風呂に入れずに困っていたといいます。

実家は『プロパン』でしたので、ご近所でお風呂に困っている方に貸してあげて

皆で力を合わせて乗り越えた震災だったと、今、改めて感じます。

2021・2・14の地震の際には、大きな被害も出ずに、そしてコロナ感染者が拡大しそうになっても

すぐに『一致団結』して感染者数が、みるみる少なくなりました。

これは、苦しい時、悲しい時を一緒に乗り越えてきた者同志にしかできないと思っています。

まさに東北魂!!!!!!!!

長くなりましたが、東北は災害が多いかもしれません。

ですが、『わたしは東北に生まれ、東北で生活できて良かった』と心から思います。

皆さんはどうですか?